



歴史
History
中世
高願寺のおこり
南北朝時代、南朝の有力武将であった新田義貞の子・義興、義宗らが上野国で兵をあげ鎌倉へ進みし後、足利尊氏との鎌倉争奪の戦乱の影響を当地でもこうむり、新田軍の武士を弔うための草庵として始まる。その後、江戸時代初期の1638(寛永15)年、西本願寺第13代良如上人に随喜*した福専坊釋順徹によって、浄土真宗本願寺派の寺院となった。当寺について、慶安年間(1648-1651)の水帳に「弥陀堂料」の記載があり、寺領を賜っていたことがわかる。
*心から喜んでその教えに随うこと
近世
「侍寺」と呼ばれた時代
江戸時代には、重要な街道であった中原街道と府中街道の交差する位置にあり、府中街道と二ヶ領用水に囲まれた寺領を持っていた。また、西明寺・泉沢寺と共に小杉御殿*を守る役割を果たすため、帯刀を許された武士が常駐していたことから「侍寺」とも呼ばれた。1698年(元禄11)に「阿弥陀堂領」として土地石高(三石壱斗四升)を斎藤飛騨守より賜受された文書が残っている。
*1608年 徳川秀忠により、江戸入府や鷹狩りのために造営された徳川将軍家の御殿

阿弥陀堂領朱印状
1698(元禄11)年4月18日

棟札
1754(宝暦4)年に建てられた前本堂の棟札
近代
寺子屋開設と地域教育
境内にある寿毫堂の墓(1760年没)に刻まれた碑文に「筆弟201人」とあることから、当時既に多数の筆子がおり、寺子屋創設は更に前であることがわかる。寿毫堂とは、武士・大橋頼貞の雅号である。小杉御殿を守るために寺に常駐していた武士が手習い師匠として民衆子弟の教育を行っていたと思われる。明治維新により寺子屋は消滅したが、1873年(明治6)に「宮内学舎」として境内で再スタートを切り、翌1874年に「宮内学校」として中心地に移設され、1901年(明治34)に「尋常中原小学校」(現・中原小学校)が設置されるとそこに統合された。当山第15代義信は中原小学校2代校長として学校教育に携わった。

寿毫堂の墓
高願寺境内墓地に現存

宮内学舎の絵
木造平屋の草屋根で、建築費およそ320円。ちょっと広めの教室と小さな応接間と職員室。
現代
再建、そして現在
当初の本堂と庫裡は1753年に焼失。翌年当山第7代南順によって上棟されたが、1982年に再び焼失し、現在の本堂はその後に再建されたものである。寺号は、2005年に「髙元寺」から寺院建立当初の「髙願寺」に改称。寺子屋開設時から引き続き地域教育の一端を担い、第15代義信は尋常中原小学校の2代目校長に就任、第16代義證は小中学校で教鞭をとるなど代々教育界にたずさわる。当時、学校教育を通じて結ばれたご縁は今なお引き継がれている。2010年以降は、明治期の古民家『至心学舎』、旧宮邸『幽篁堂』を誰もが多目的に使える場として境内に移築し、仏事だけでなく、稽古事、講座、音楽会などを開催。誰もが集える学びの場、地域コミュニティが生まれる場として寺院を開き続けている。
寺号の変遷
開山時は「髙願寺」だったが、江戸時代中期頃に「高元寺」に改称(1830年『新編武蔵野風土記』に「高元寺」と記載 あり)。1848年 登戸の長念寺落慶時の資料に「光元寺」と記載があるが、その後再度「高元寺」となり、 2005年に「髙願寺」へ改称。
帰依寺・光圓寺について
当山の帰依寺として神地村光圓寺があった。光圓寺は1678年に開山し、1707年に住職が逝去。その後、廃寺となるにあたり「過去帳」(弘化3(1846年)丙午3月と記載あり)を当山が引き継いだ。
